「悟り」の一部を身近に解説(できていなくても苦情は受け付けません(笑)
「好き」と「嫌い」は対極で同時に内在する感情ですが
「無関心」は何も生み出しません
ですが、関わる頻度が高くなるといずれ何かの感情に紐づけされていきます
「好き」「嫌い」があるから
人は考えますし、変化していくものです
釈迦の「悟り」とは
縁起(人や物とのご縁)があるからこそ
「自分」の存在を証明できるのであって
「自分」を証明しようとすると
「自分以外の事を永遠と語らないと証明できないのです」
親・友達・住所・生年月日・所持している車や時計・
卒業した学校・好きな食べ物
好きな事・嫌いな事・無関心な事すべてが自分と関係することに気付き
最終的には自分以外の宇宙の総ての説明が必要になることに気付きます。
それらを語り続けた接点(つなぎ目の点)が
自分であり自我なのです
それがわかると、
自分に関わる全て(宇宙のすべて)の縁起に
「感謝」できることがわかります
こういった解説を対機説法といい
その時その時に関わっている人にフォーカスした
解説を作りだし、説法できるようになることを
「大乗の悟り」というのですが
私は、その考えに少し否定的で
空海さんのいう「同行二人」の考え方に賛同しています
師弟関係などはなく対等であり
「あなたに、解説させていただけることで
私も氣付きを学ばせていただけます、あなたとの縁起に感謝します」
という考えです。
私独自の解釈も含まれるので取り急ぎ
手描きの参照図ですみません。(笑)
そうなると、自分を存在させてくれているすべての縁起に感謝ですね
より縁起を理解する為には観自在「ミクロ」と「マクロ」の最適解を理解
最適解も、
「ミクロ視点」と
「マクロ視点」では
「真逆の解」が導き出される事がありますよね
真偽は別として
卑弥呼の時代は
神という名の自然の怒りを抑える為に
子どもを供えて(生贄に捧げて)いた
時代もあり
最適解は、あくまで
その時代や、環境や立場での
最適解でしかないと思います。
子どもを供える儀式から
(子供)と名付けられたなんて
悲しい歴史です。
その時代に、
「親」
という
「ミクロな視点」では
「子どもを守りたい」
と願うのが最適解
「村民」
という
「マクロな視点」だと
「生贄に子供を捧げる事で神の怒りを鎮める」
と願うのが最適解
どれが正しいなんて
誰にも決められないのかもしれませんよね。
ですが、この記事を読んで下さっている皆様が
✨さらに素敵な日々と未来を描ける世界になりますように✨
と願う事が今の私の最適解です。(笑)
とある、サロンのこの記事を書くきっかけになった方に感謝の気持ちとこの投稿を捧げます
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